雑賀侵攻
信長の第一回雑賀攻め
戦争:安土桃山時代
年月日:天正5年(1577年)2月?3月
場所:紀伊国雑賀荘周辺
結果:織田軍の撤退
交戦勢力
織田軍 雑賀衆
指揮官
織田信忠、堀秀政、羽柴秀吉など 鈴木孫一、土橋若大夫など
戦力
100,000[18] 2,000以上
損害
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織田信長は雑賀攻撃のために大軍を動員した元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである[19]。天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。
開戦から「降伏」まで
同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになった[20]ため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長は9日に安土を発して上洛。膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張・美濃の軍勢、北畠信雄・神戸信孝・織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内と越前・若狭・丹後・丹波・播磨の兵も合流して13日に京都を発進した。16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。
織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ三万の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・同重宗、浜手は滝川一益・明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀・筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である[21]。
浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。2月28日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。
山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。
日時は特定できないが2月24日以降[22]、山手先鋒の堀秀政勢が雑賀川の渡河を試みた。『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』によれば、雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・桶・壺・槍先を沈めておいて渡河の妨害を図った。織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られて前進できず、また川を越えた者も湿地帯で動きが鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊を組んで間断なく鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。これにより織田方は多大な損害を受けて退却した[23]。
その後戦局は膠着状態となったが、雑賀側はゲリラ戦によって抵抗し、織田勢は近辺への放火や住民の殺害を行った。鈴木孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら七名は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。21日、信長は陣払いして京都へ引き揚げた。
とはいえ降参というのはあくまで名目上のことに過ぎず、雑賀衆の形式的な降伏と引き換えに織田勢が撤退したというのが事実に近いと思われる[24]。足利義昭や毛利輝元は当時から織田方の敗北を喧伝していたし、雑賀衆も半年もたたないうちに再度挙兵して信長と戦うようになる。
信長は引き揚げるに当たり、雑賀衆の再起に備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張を駐留させた[25]。
再起と近隣への報復
同年7月、雑賀荘・十ヶ郷の諸士を中心とする雑賀衆が兵を動かし、先に信長に与した三組の衆への報復を始めた。8月16日、井ノ松原(現海南市)において鈴木孫一らの雑賀衆は日高郡の国人・地侍の応援を得て南郷の土豪稲井秀次・岡本弥助らと戦い、これを撃破した。同時期に信長は佐久間信盛父子を大将に七、八万の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。
翌天正6年(1578年)5月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を一か月にわたり包囲攻撃したが、落城には至らなかった。宮郷はその後、本願寺に謝罪して赦免を受けている。
石山開城後
天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった[26]。
天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児五人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平次・平尉(平丞)兄弟は逃亡、根来寺泉識坊[27]は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。
高野攻め
信長の高野山攻め
高野山壇上伽藍。顕如によれば、1586年当時の山内には七千坊の子院があったという
戦争:安土桃山時代
年月日:天正9年(1581年)10月-天正10年(1582年)6月
場所:高野山麓から紀ノ川南岸一帯
結果:織田軍撤退
交戦勢力
織田信長 高野山
指揮官
織田信孝、岡田重孝、松山新介など 南蓮上院弁仙、花王院快応、橋口隼人など
高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する[28]紀伊の一大勢力であった。
高野山と織田信長の関係悪化は、天正初年の大和宇智郡の領有問題に絡むトラブルに始まる。同8年(1580年)閏3月に荒木村重の残党五名が山内に逃げ込み、これを察知した信長は7月に前田利家・不破光治を使者として高野山へ差し向けたが、高野山側は懐に入った窮鳥はこれを追わずとして五人の引き渡しを拒否した。8月、堺政所の松井友閑配下の足軽32人が山内に入り、荒木残党の捜索と称して乱暴狼藉を働いたため、高野山側によって全員討ち果たされた。その報復として信長は9月21日、諸国の高野聖を捕えるよう命じた。
高野山には全面対決の意思はなく、朝廷に嘆願したり信長にも謝罪の使者を送ったりと和平工作を継続していた。信長も9月21日に宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に与えるなど、直ちに武力行使に踏み切る意思はなかった。だが発端である荒木残党の引き渡しについては最後まで合意に達しなかった。
天正9年(1581年)8月17日、信長は高野聖数百人を安土において処刑した[29]。これを契機に、世間では高野山攻めが行われるという噂が流布するようになる。
戦いの有無と規模に関する考察
『高野春秋編年輯録』によると、10月2日に堀秀政が根来に着陣したのを皮切りに、総大将織田信孝以下岡田重孝、松山庄五郎らが紀ノ川筋に布陣、大和口には筒井順慶・定次父子を配し、高野七口[30]を塞いで総勢十三万七千二百二十余人に達したとされる。これに対し、高野山側は領内の僧兵や地侍に諸国の浪人を加え、合計三万六千余の軍勢を集めたとする。
しかしながら、当時なお多方面に敵を抱えていた織田氏がそれだけの兵力を高野山に投入することができたのかという疑問、また大軍に比してそれを指揮する武将の格が低すぎること、名を挙げられている人物には明らかに当時他方面で働いている者が含まれている[31]ことから、『高野春秋』の記す合戦規模については疑問符をつけざるを得ない。とはいえ、高野攻め自体については各種史料に残る断片的な情報から、全くの虚構とは言えない。高野山側の記録よりもかなり小規模な形で戦いがあったとするのが妥当ではなかろうか[32]。
戦闘経過
高野山側は伊都・那賀・有田郡の領内の武士を総動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた[33]。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山昭高の子)を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、信長降伏の祈祷を行った。
天正9年10月、織田勢は紀ノ川北岸一帯に布陣し、総大将織田信孝[34]は鉢伏山(背山)城(現かつらぎ町)に本陣を構えた。根来衆も織田方として動員された[35]。織田勢と高野勢は紀ノ川を挟んで対峙する形になったが、なお交渉は継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。
翌10年1月、信長は松山新介を多和(現橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢[36]の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を襲ったが部将二名を失って撃退される。
3月3日、高野勢五十余名が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市(旧那賀町麻生津)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。
6月2日夕刻に至って、高野山に本能寺の変の情報が届く。まもなく寄手は撤退を開始し、高野勢はこれを追撃して打ち破った。高野山は危機を脱し[37]、8月21日には恩賞が行われた[38]。
秀吉の紀州攻め
秀吉の紀州攻め
再建後の根来寺大伝法堂。和泉支配を巡り、根来寺と秀吉は対立した
戦争:安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月?4月
場所:和泉及び紀伊各地
結果:羽柴秀吉による紀伊平定
交戦勢力
羽柴秀吉 紀伊国人衆及び有力寺社
指揮官
羽柴秀長、中村一氏、小西行長など 畠山貞政、湯河直春、太田宗正など
戦力
60,000?100,000[39] 総数は不明
損害
7,000?10,000[40] 10,000?15,000以上
羽柴秀吉像
再建岸和田城根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に八か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など五千人以上が居住していたとみられる[41][42]。また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉は根来寺の泉南への進出を快く思わず、機会があれば討伐しようともくろんでいた[43][44]。
本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し[45]、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。
以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、ここに根来・雑賀が共同で羽柴秀吉に対抗するという構図が生まれた。
前哨戦
天正11年(1583年)、秀吉は蜂屋頼隆を近江に転出させて中村一氏を岸和田城に入れ、紀伊に対する備えとした[46]。一氏の直属兵力は三千ほどで、紀州勢と対峙するには十分でなかった。そのため和泉衆[47]をその与力として付け、合わせて五千弱の兵力を編成した。これに対抗して根来・雑賀衆は中村・沢・田中・積善寺・千石堀(いずれも現貝塚市)に付城を築く。以後、岸和田勢と紀州勢との間で小競り合いが頻発するようになった。根来・雑賀衆は畠山貞政を名目上の盟主に立て、さらに紀南の湯河氏の支援も受けた。
同年7月、顕如は鷺森から貝塚に移った[48]。
同年秋頃から紀州勢の動きが活発になる。10月、一氏は兵力で劣るために正面からの戦いを避け、夜襲で対抗するよう指示を出した。同12年(1584年)1月1日、年明け早々に紀州勢が朝駆けを行う。3日、今度は岸和田勢が紀州側の五か所の付城を攻め、これを守る泉南の地侍らと激戦となった。16日、紀州勢が来援し、五城の城兵と合わせて八千の兵力となり、岸和田を衝こうとした。岸和田勢は六千の軍勢で対抗し、近木川で迎撃して紀州勢を退けた。
大坂襲撃
同年3月、根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒は日高郡の湯河・玉置氏の加勢を得て和泉へ出撃。さらに淡路の菅達長[49]の水軍も加わり、18日には水陸から岸和田・大津を脅かした。大津の地侍真鍋貞成[50]は菅水軍の二百艘一千人を撃退した。
21日、秀吉は尾張に向けて出陣。翌22日、紀州勢は二手に分かれ、一手は土橋平丞兄弟を将として四、五千人で岸和田城を攻撃した。もう一手は堺を占領して堺政所松井友閑を追い払い、さらに26日には住吉や天王寺に進出して大坂城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・黒田長政らと戦った。未だ建設途上の大坂の町は全く無防備で[51]、人々は紀州勢の破壊を恐れて[52]自ら家宅に放火した。また盗賊が跋扈し略奪が横行し、その治安の悪化は安土炎上時に匹敵したという[53]。最終的には大坂は守られ、紀州勢は堺・岸和田からも撤退した。この戦いを岸和田合戦という[54][55]。
この攻勢は秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しようとした矢先に行われ、秀吉は一度は予定通り21日に大坂を出立したもののその後また大坂に戻るなど出鼻を挫かれることになった[56]。その後も4月には保田安政が河内見山(錦部郡)に進出し、8月には見山城を築いて活動拠点とした。またこの時期、根来・雑賀衆は四国の長宗我部氏とも連絡を取り合っていた