2009年06月29日

西洋の博物学の移入

日本は島国であり、地形の起伏に富む。そのため固有種は少なくない。大航海時代以降、ヨーロッパ各国の学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は鎖国政策を取っていたため入国ができなかった。
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わずかにオランダ商人だけが出島への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは出島の三学者と呼ばれるケンペル、ツンベリー、シーボルトである。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。ケンペルは出島に薬草園を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また中川淳庵・桂川甫周らに植物標本の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつであるアジサイの一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。
「博物学」の言葉は「Natural history」の訳語として作り出されたものである。英語での意味は、広義には政治学・神学などに対立する自然科学一般を指し、狭義には上で説明した博物学のことを指す。この中間の意味として、「Natural philosophy」すなわち物理学と対立する学問を指すことがある。「自然」の内容がNatural history、形式がNatural philosophyとなるわけである。

Natural historyは、「博物誌」「自然史」「自然史学」などと訳されることもある。

2009年06月12日

アミノ酸(-さん、Amino acid)とは

アミノ酸(-さん、Amino acid)とは、広義には(特に化学の分野では)、アミノ基とカルボキシル基の両方の官能基を持つ有機化合物の総称である。一方、狭義には(特に生化学の分野やその他より一般的な場合には)、生体のタンパク質の構成ユニットとなる「α-アミノ酸」を指す。分子生物学など、生体分子をあつかう生命科学分野においては、遺伝暗号表に含まれるプロリン(イミノ酸に分類される)を、便宜上アミノ酸に含めることが多い。

動物が体内で合成できないアミノ酸を、その種にとっての必須アミノ酸と呼ぶ。必須アミノ酸は動物種によって異なる。

栄養素としてはもとより重要であるが、近年(2006年現在)はアミノ酸を含有する補助食品が消費者に一種の健康ブームを引き起こしており、健康食品、飲料メーカーなどが盛んに新製品を出している。しかし一般的な食生活を送る日本人はタンパク質由来のアミノ酸を充分に摂取している場合が多く、特別な場合を除きさらなる摂取が有効かは議論がある。
バンジージャンプ
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心療内科
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血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

α-アミノ酸とはカルボキシル基が結合している炭素(α炭素)にアミノ基も結合しているアミノ酸であり、RCH(NH2)COOH という構造を持つ。R が水素 (H) であるグリシン以外のアミノ酸では、α 炭素へのアミノ基やカルボキシル基などの結合様式が立体的に2通り可能で、それぞれ D 型、L 型の光学異性体として区別される。生体のタンパク質は α-アミノ酸のポリマーであるが、基本的に L 型のものだけが構成成分となっている。 D 型は天然では細菌の細胞壁の構成成分や老化組織、ある種の神経細胞などに存在が見出されている。生体のタンパク質はほとんどの場合、R で表記した側鎖の違いによる20種類のアミノ酸からなる。個々のアミノ酸はこの側鎖の性質によって、親水性・疎水性、塩基性・酸性などの性質が異なる。

2009年06月07日

弾頭を硬質ゴムで作成した弾丸

弾頭を硬質ゴムで作成した弾丸。多くの場合、弾丸は切れ目の有る円筒状で先端にくぼみがあり、発射されると先端のくぼみが受ける風圧で切れ目に沿って十字形に開いて飛翔する。弾丸の重量やその構造上、有効射程が短く、目標に対して弾丸が貫通することがないので非致死性兵器として扱われる。しかし、至近距離では十分な殺傷力があり、目標にヘビー級プロボクサーのパンチ並みの衝撃を与えるうえ、数m以内では皮膚を貫通する威力のものがほとんどのため、当たり所によっては目標が死亡することも十分あり得る。この特性を生かして大型獣の撃退、警察や軍隊による暴徒鎮圧などに用いられる。
エクスプローダー (exploder)
ホローポイントのくぼみに銃用雷管や少量の火薬を埋め込んだもの。目標に命中すると弾頭が爆発的に変形するので、殺傷能力の向上を期待されたが、実際の効果はさほどではなかった。
散弾 (shot)
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フランジブル弾 (frangible bullet)
粉体金属(銅、スズなど)を押し固めた弾丸。
人体は貫通するが壁など固い物質に当ると粉々に砕けるので近接戦闘での跳弾防止、運行中の航空機内での犯罪者制圧に利用される。
フレシェット弾 (flechette)
APFSDS様のプラスチック製サボットを用いて矢状の弾体を発射する弾丸。矢は1本とは限らず、散弾銃の散弾代わりに矢型子弾を詰めた実包も存在する。
フレシェット弾は1980年代にオーストリアのSteyr社によってACR(Advanced Combat Rifle)として試作され、従来のライフル銃を大きく凌ぐ初速と貫通力を実現したが、軽量であるため横風の影響を受け易く、ライフル弾のような命中精度は実現できなかった。
ダムダム弾 (dumdum bullet)
19世紀に英領インドのコルカタ近郊にあるダムダム工廠で製造された対人用拡張弾頭の総称であり、1899年にダムダム弾禁止宣言が、次いで1907年にハーグ陸戦条約が結ばれ軍用弾としての使用が禁止された。日本では某アニメ作品の影響で爆発性の弾頭と信じられていたり、弾頭に十字の切れ込みがあるという俗説が信じられているが、実際に製造されたのは狩猟用のソフトポイント弾やホローポイント弾と同じ構造である。
ダムダム弾はハーグ陸戦条約第23条に抵触するため戦争での使用は禁止されているが、これに拘束されない狩猟や警察等では、一発で多大なダメージを与えることができ、また対象物内部で弾丸が止まる可能性が高い(貫通による二次被害の軽減)ため、現在でも多く使用されている。
なお、映画や漫画等のエンターテイメント作品では通常のフルメタルジャケットに刃物等で弾丸の先端に切れ目を入れて殺傷力を高めた弾丸を作る描写がなされていることが時々見られるが、実際にそのような弾薬を発射すると弾芯である鉛だけが押し出されてジャケットのみが銃身内に残されてしまい、次弾がこれに引っ掛かって詰まってしまえば銃身が破裂するため大変危険である。
フラグメンテーション弾
現在のライフル弾は高速化がすすみ、通常のフルメタルジャケットでも人体等に命中すればその強力な運動エネルギーに弾丸が耐え切れず、容易に弾芯とジャケットが破壊・分離するフラグメンテーション現象が発生する。
これを利用して、ダムダム弾に匹敵する銃創を引き起こすとされるのが、現在各国で広く使用されている5.56mm NATO弾となったM855/SS109の弾頭である。
しかし、実際にはこの現象は短距離でしか発生せず、5.56mm弾が有効な殺傷力・貫通力を発揮できるのは近距離に限定されるという事実はベトナム戦争以来変わっておらず、6.8mm SPC弾や6.5 mm グレンデル弾といった、より弾頭重量を増加させた第二世代の小口径高速弾薬が開発されている。
対人スチール・コア弾
現在の軍用小銃弾の主流である小口径高速弾は、弾頭重量が軽いため1発あたりの対人ダメージが小さくなっており、ボディアーマーの発達で軍用弾薬により高い貫通力が求められるようになっている事から、これを両立させるための弾薬として、特殊なスチール・コア(鋼製弾芯)弾が開発されている。

2009年04月24日

サハリン州

サハリン州(Сахалинская область, Sakhalinskaja oblast')は、ロシア連邦の連邦構成主体のひとつ。サハリン島(樺太島)とクリル諸島(千島列島)を管轄し、極東連邦管区に属する。州都はユジノサハリンスク。面積は87,100km?、南北の距離が約900km、人口は546,695人(2002年)。

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宗谷海峡、オホーツク海を挟んで日本の北海道に接しており、日本との経済的な結びつきが強い。主な付属島嶼にモネロン島(日本名は海馬島)があり、1983年9月1日に発生した大韓航空機撃墜事件のあった舞台としても有名である。サハリン島の南部(南樺太)およびクリル諸島(千島列島)全域は、第二次世界大戦以前は日本領であった地域であり、当時、未だ有効期間中であった日ソ中立条約を破棄してソビエト連邦が侵攻した。現在でもロシア連邦が実効支配している。そのうち、南クリル(南千島、「北方領土」)については、日本政府は日本固有の領土であるとして返還を強く求めており領有権を巡って係争となっている。その他日本が領有権を放棄した地域については日本政府は「ソ連・ロシアが条約に調印しておらず国際法上は所属未定」との立場を取っている。なお、日本政府による積極的な返還要求が南千島のみであるのに対し、日本共産党及び維新政党・新風は、樺太・千島交換条約によって合法的に日本の領土とされていた歴史的経緯を根拠に、北千島を含む全千島列島の(維新政党・新風は南樺太も[1])返還を主張すべきという立場を取っている。またサハリンはモスクワからとてつもなく離れた僻地の島であるためか、レーニン像が未だに残っており、施設の老朽化が進んでおり、経済発展により西側へ移住が進み過疎化している。鉄道も大陸からのお古のロシア客車が使用されている。

2009年04月06日

リール (ダンス)

リール(reel)は、フォークダンスの1形式、ならびにそのための音楽(舞曲)。

スコットランド - ジグ、ストラスペイ(Strathspey)、ワルツと並ぶ4大スコティッシュ・カントリーダンス(Scottish country dance)の1つ。そのフィガー(figure)も指す。
アイルランド
アイリッシュ・ダンスでは、Reel time(手をつないでぐるぐる回るダンスステップの一種)で踊られるすべてのダンスを指す。
アイリッシュ・ステップダンスでは、リールはソフト・シューズで踊られ、ダンス・マスターが最初に生徒に教えるダンス。ハード・シューズを履いて踊る「treble reel」もある。

音楽のリール [編集]
リールは、4/4拍子、2/2拍子、あるいは2/4拍子で記譜される。すべてのリールは同じ構造を持っていて、八分音符で、各小節の1拍目と3拍目にアクセントが置かれる。その点で、主として均等な拍から成るホーンパイプとは異なる。一般にリールは2つの部分(AとB)から成っていて、ほとんどのリールは「AABB」と反復されるが、「ABAB」となることもある。AもBも基本的に8小節で、それは4小節と2小節のフレーズに分割できる。この構造はQ&A(最初のフレーズが「問い」で次のフレーズが「答え」)の配列に従っている。32小節(4x8)から成るグループが3、4回反復され、それから次のリールの演奏が始まる。今日、アイルランドのリールの多くは新曲と、容易にリールに作り直すことのできる他の伝統音楽の旋律で補足されている。リールはアイルランドのフォークダンスの中でも最も人気のある曲/旋律形式である。

リールは南西イングランドのフォークソングでも人気がある。アイルランドならびにイギリスの移民たちは大西洋を渡って、アメリカ合衆国やカナダの大西洋沿岸、およびカナダのフランス語圏にリールをもたらした。その中には、ケベックやアカディアの音楽がある。ラ・ボルデュック(La Bolduc)、ラ・ボッティン・スリアン(La Bottine Souriante)、新しいところではネオ=トラッド(Néo-trad)グループのLes Cowboys Fringantsといったケベックの多くの歌手・バンドの曲にリールは取り上げられている。

スコットランドのリールのフィガー
スコティッシュ・カントリーダンスでは、3人以上のダンサーが複雑に絡み合う軌道に沿って動きながら踊る。他のフォークダンスでいえば「hey」に似ている。

最も一般的なものは「reel of three」で、名前が示すように、3人のダンサーによって踊られる。3人が辿る軌道は同じ1つのもので、上から見ると「8」の字になっている。1人は「8」の字の一番上から、1人は真ん中から、1人は一番下からスタートする。リールが始まると2人のダンサーがお互いの横をすれ違うことになるが、その時、どちらの肩が相手に近いかによって、そのリールは「right-shoulder(右肩)」あるいは「left-shoulder(左肩)」と名付けられる。リールが完了した時、3人のダンサー全員がスタートした場所に戻っている。

リールには無数のバリエーションがある。

Half reel of three - 3人のダンサーたちが軌道を半分だけ移動したところで終了する。曲は普通4小節。「8」の字の真ん中からスタートしたダンサーは元の場所に戻っているが、他の2人はそれぞれスタート地点の反対側に入れ替わっている。
Reel of four - 4人で踊るリール。「8」の字の上のループと下のループの間にもう1つ小さなループを追加、内側にいる2人のダンサーがすれ違う。
Parallel reel - 2つのリールが同時に踊られる。一方のダンサーはもう一方のリールの自分と対応するダンサーと、常に同じ距離を保ちながら、同じ軌道を正確に踊る。その意味で「平行」である。
Mirror reel - Parallel reelに似ているが、一方のダンサーはもう一方のリールの自分と対応するダンサーの軌道と鏡写しになるように動くところが異なる。(もし一方のリールがleft-shoulderで踊りだすとしたら、もう一方のリールはright-shoulderで踊りだす)
Crossover mirror reel - ダンサーの2人がもう一方のリールに乗り換える。
Double crossover mirror reel - Crossover mirror reelで動きを反復する時に、ダンサーが元いたリールに戻る。
Inveran reelsまたはsausage reels - 3組のカップルによるMirror reel。
Tandem reel
Dolphin reel
Closing reel

ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

2009年03月22日

マイクロエース

マイクロエース(MICRO ACE 旧称:有井製作所)は、鉄道模型及びプラモデルのメーカー。本社所在地は埼玉県蕨市だが、難読地名であるため説明書等の本社所在地ではワラビ市と記載されている。

かつてはプラモデルを主製品としていたが、現在は鉄道模型の新製品開発に経営の主軸を移して、プラモデル部門は旧製品の再生産を継続している。

マイクロエースの名称は元来、有井製作所のNゲージ部門の統轄会社の会社名であり、後に有井製作所に吸収され同社のNゲージブランドとして使用されていたものであった。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

1963年(昭和38年)9月1日創業、1966年(昭和41年)には株式会社化して、株式会社有井製作所となる。以後プラモデル製造を中心として事業展開。1980年(昭和55年)以後Nゲージを中心として鉄道模型にも本格的に参入している。2004年に新設の子会社である株式会社マイクロエースに事業を移管し、「マイクロエース」が新たな社名となった。

プラモデル部門
プラモデルの分野では、超時空シリーズ(マクロス・オーガス・サザンクロス)等、キャラクター模型メーカーとしてモデラーに広く認知されている。代表的な商品として、珍作キットとして一部で有名な『超時空騎団サザンクロス』のラーナ少尉などがある。

有井(アリイ)時代は世間の流行に合わせてキットを開発する傾向が強く、駄菓子屋的感覚で製品の質よりもタイムリーさを狙った物が多い。1980年代のガンプラブーム時にはオリジナルストーリーブック(ミニサイズの漫画)が付属した「ザ★アニメージ」シリーズ、当時CM等で話題になったエリマキトカゲやラッコといった動物、1990年の湾岸戦争直後のパトリオット/スカッドミサイルのシリーズなどをリリースしていた。

特に、1987年にフジTVのバラエティ番組『笑っていいとも』ならびに『オレたちひょうきん族』の番組中で流行った吉永小百合の歌・『奈良の春日野』の「鹿のフン」(尻からプラスチック玉のフンを出すマンガチックな鹿の模型)は話題になる。プラモデルがキャラクター関連のプラモデル全盛期の余波で潤っていた模型メーカーに開発力があり、若年層が積極的にプラモデルを購入していた時期のエピソードである。

なお、現在もプラモデルも継続販売している。現在の製品は、以前に倒産・廃業したメーカー(LS、オオタキ等)から購入した金型を再利用し、自社製品として発売している。代表的なシリーズとして、旧LSの1/32オーナーズクラブやワールドフェイマス1/144ジェットファイターシリーズがある。一部の商品(ジェットファイターシリーズ等)については公式HPでも紹介されており、ラインナップ等が確認できる。パッケージは鉄道模型とは違い「アリイ」名義のままで長らく販売されてきたが、近年から順次「マイクロエース」に変えられている。

販売されている製品のジャンルは様々で、各スケールのカーモデルをはじめ鉄道車輛(HOゲージ)、船、扇風機などがある。

自動車関連のプラモデルは年式の古いものは名車シリーズとして、パッケージのイラストも旧社時代のパッケージを継承しての販売となっている。また、主力製品である1/32オーナーズクラブは、最も安価なカーモデルシリーズとして知られている。

ただし、キットにはバリや欠け、歪みなど、製造工程上の問題が他社製品より多く見られるという特徴がある。元となる金型が製造後20年以上経過した物が多いが、経年による金型の劣化を差し引いても、金型のメンテナンス状況の悪さを指摘されるほどである。しかし、一部ではその問題点の解決をモデラーの工作技術の腕の見せ所として、作り上げる難しさを指摘されているモデルを大幅にディテールアップして完成させるプロセスを楽しんだり、または無改造で素朴なプラモデルとしての荒削りなテイスト・雰囲気を、童心に帰ってリモコン戦車を動かせて楽しむユーザーも存在する。

現在の主力再生産プラモデル

1/48,1/50,リモコン戦車シリーズ
1/48-1/144,飛行機モデルシリーズ
1/24,カーモデルシリーズ,1/32オーナーズクラブ
1/1,コンバットアクセサリーシリーズ

2009年03月07日

サンフランシスコ (防護巡洋艦)

サンフランシスコ (USS San Francisco, C-5/CM-2) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。艦名はカリフォルニア州サンフランシスコに因む。

艦歴
サンフランシスコはカリフォルニア州サンフランシスコのユニオン鉄工所で起工した。1889年10月26日にイーディス・W・ベンハムによって命名、進水し、1890年11月15日に艦長ウィリアム・T・サンプソン大佐の指揮下就役した。
リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

サンフランシスコは1902年1月2日に再就役し、ヨーロッパ戦隊に配属された。9月に帰国し、南方およびカリブ海での作戦活動に従事する。地中海への巡航後、アジアへの巡航を行い、1904年の秋にノーフォーク海軍造船所に入渠、同所で12月31日に退役した。

1908年6月に、サンフランシスコは機雷敷設艦への改修を命じられる。1910年には5インチ砲8門が装備された。1911年8月21日に再就役したが予備役状態で保管された。その後ニューヨークでの観閲式に参加し、1911年11月29日に完全就役状態に置かれた。

1912年12月19日に機雷敷設艦に指定され、サンフランシスコはノーフォークを拠点として西大西洋およびカリブ海で1916年まで活動した。その後再び不活性化が命じられ、1916年6月9日にニューハンプシャー州ポーツマスで予備役状態に置かれる。しかしながら10月18日に再び就役する。

1917年4月にアメリカ合衆国が第一次世界大戦へ参戦すると、サンフランシスコはハンプトン・ローズに防潜網を敷設する。6月にニューヨークへ移動し、深部に機雷を敷設する実験に参加した。8月にはポーツマス海軍工廠でオーバーホールを行い、9月半ばにコネチカット州ニューロンドンに移動、防潜網敷設任務に従事し、晩秋にノーフォークでの訓練任務を命じられた。1917年12月から1918年3月まで広範囲オーバーホールが行われ、4月に第1機雷戦隊の旗艦に命じられる。

5月にロードアイランド州ニューポートで戦隊が形成され、12日にイギリスに向けて出航した。26日にイギリス海軍の部隊がインヴァネスに先導し、戦隊は2週以内にドイツ潜水艦の航行を妨げるための北海機雷原敷設に参加した。

サンフランシスコは11月11日の停戦成立まで機雷敷設任務に従事した。その後掃海艇が到着し、サンフランシスコは帰国の準備に入る。12月2日にインヴァネスを出航し、1919年1月3日にハンプトン・ローズに到着した。オーバーホール後サンフランシスコは1921年まで西大西洋およびカリブ海で巡航を続ける。1920年7月17日に CM-2 (機雷敷設艦)に艦種が指定される。1921年に不活性化が命じられ、10月6日にフィラデルフィアに到着、同地で12月24日に退役した。

10年間保管されたサンフランシスコは、建造中の重巡洋艦にその名を与えるためタホー (USS Tahoe) と改名され、続いて1931年1月1日にヨセミテ (USS Yosemite) と改名された。ヨセミテはフィラデルフィアでさらに8年間保管され、1937年6月8日に除籍されたがその後も保管され、1939年4月20日にメリーランド州ボルチモアのユニオン・シップビルディング社にスクラップとして売却された。

2009年02月18日

レンズ(英: lens)

レンズ(英: lens)とは、光を屈折させて発散または集束させるための光学素子である。通常は、両側面を球面と球面または球面と平面とした透明体である。用途によっては、片面または両面を球面ではなくした非球面レンズも利用される。
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素材としてはガラス、プラスチックなどが用いられる。入射した平行光束を収束させる働きを持つものを凸(とつ)レンズ、発散させるものを凹(おう)レンズという。通常、レンズ中央部は凸レンズでは厚く、凹レンズでは薄い。

レンズの語源はレンズ豆(ヒラマメ、ラテン語: lens)で、当初作成されたレンズがレンズ豆の形状に似ていたことからこの名前が付いた。顕微鏡として微細な世界とそこに潜む微細な生命を発見させたり、望遠鏡として地球外の世界を見せるなど、レンズは科学の発展に大きく関与している。写真撮影用のレンズを単にレンズと言うことも多い。また、眼の水晶体もレンズと呼ばれる。

実用上の多くのレンズは1つの軸(光軸)のまわりに回転対称な面でできていて、以下の説明では主にこの場合を扱う。回転対称でない例として乱視用めがねレンズ(トーリックレンズ)、棒状の半円柱形ルーペなどがある。

光がガラスなど透明な物質に入るときに屈折し、また出るときにも屈折する。回転対称なガラスで軸から離れるほど内側に屈折するように傾けた形状(ふちより中央が厚い形状)にすれば、光があつまるようにすることができる。これを凸レンズという。

一枚のレンズについては、その回転対称軸を光軸と呼ぶ。以下ではレンズに入射する光束が光軸付近の十分細い領域を通る(近軸近似が成り立つ)とする。光軸に平行な光線は凸レンズを通過したのち一点に集まる。この点を焦点と呼ぶ。 また、レンズに入る前の光線とレンズから出て焦点を通る光線とが交わる点から光軸上に下ろした垂線の足を主点と呼ぶ。 主点から焦点までの距離を焦点距離と呼ぶ。 平行光をレンズの前後どちら側から入れるかに対応して二つの焦点が存在することになり、主点も二つ存在する。ただし、焦点距離は前後どちらも等しい。また、レンズの厚みが無視できる程度に薄いと仮定(薄レンズ近似)した場合、ふたつの主点は一致する。

凸レンズには主に以下のような性質がある(図1-1)。

光軸に平行な光線は凸レンズを通ったのち焦点を通る
焦点から出た光線は凸レンズを通ったのち光軸に平行な光線となる
レンズの節点を通る光は角度を変えずに進む

実像と虚像
物側焦点より遠い物体上の点(物点)から出た光(図1-2)について考えると、

物から軸に平行にレンズに向かう光は、屈折されたあと像側焦点を通る光になる
物側焦点を通ってレンズへ向かう光は、屈折されたあと軸に平行な光になる
結果として物点から出てレンズへ向かう光はレンズの反対側の一点(像点)を通る。軸からの物点の高さと像点の高さとの比は一定となる。像面にスクリーンを置けば物体が逆さまに拡大・縮小された像が投影されることになる。このように物点からの光が像点で交わってできる像を実像と呼ぶ。

また、物側焦点より近い物体上の点から出た光(図1-3)について考えると、

物体から軸に平行にレンズに向かう光は、屈折されたあと像側焦点を通る光になる
節点を通る光は、レンズを通る前後で角度が変わらない(薄レンズ近似では主点と節点が一致するため、ただ直進する)
結果として、実際には物点から出てレンズへ向かった光をレンズの反対側から見ると、あたかも物点より遠くの一点から出たかのように進む。このように物点からの光が像点で交わらずにできる像を虚像と呼ぶ。虚像は、ルーペのようにレンズを覗き込むことで観察できる。虚像の場合にも軸からの物点の高さと像点の高さとの比は一定となる。実像の場合と違い光が実際に1点に集まるわけではないので、スクリーンを置いても像を投影することはできない。レンズを覗いて虚像を観察できるのは、目が網膜上に実像を結像させるからである。

レンズの公式
焦点距離 f のレンズ(f は凸レンズでは正、凹レンズでは負とする)について、 主点を原点とした光軸方向の座標を s1 (通常は負)、像の光軸方向の座標を s2 とすると

1/s2 = 1/f + 1/s1
という関係(レンズの公式)が成り立つ[1]。より広く知られた形の式

1/a + 1/b = 1/f
は、s1, s2 の絶対値をそれぞれa, b とおいた(距離として表した)ものである。

物体が物側焦点より外側にある(つまり |s1| > f)ならば倒立実像がレンズに関し物体と反対側 (''s2 > 0) にでき、物側焦点より内側にある(|s1| < f)ならば正立虚像が物体と同じ側 (s2 < 0) にできる。像と物の大きさの比(横倍率) m は

m = s2/s1
で表される(m は実像では負、虚像で正である)[1]。

また、上記レンズの公式の別の表現として、前側焦点と物との座標差を z 、後側焦点と像との座標差を z' とおくと以下のニュートン形式の式が成り立つ[1]。

-zz' = f 2
m = -z' /f = f/z
ルーペ(虫眼鏡)は凸レンズでできる拡大された虚像を目視観察する道具である。ルーペの倍率は、ルーペ無しで距離 L のところから物体を見たときと、ルーペを通して見たときの虚像の見かけの大きさ(視角)の比であらわす。すなわち、ルーペ無し・有りのときの見込み角度をそれぞれ α、β とすると、倍率 M は M = tanβ / tanα と定義される。ただし、近軸近似の成り立つ範囲では M ? β/αとなる。距離 L としては、明視距離(慣習的に 250 mm とされる)が用いられる[2]。

倍率は物体とレンズと目の位置関係により変化する。レンズの焦点距離 f、前側焦点から物体までの距離を x、後側焦点から目までの距離を z とすると、倍率 M はとなる。

手持ち式のルーペの場合、主に以下のような使い方がある。

物体をレンズの前側焦点に置く(x = 0)。このときレンズを通した光は平行光になるので、目の位置に関わらず虚像は無限遠にあり倍率は一定で、M = L/f となる。
目をできるかぎりレンズに近づけ(z = -f)、かつ虚像の見かけの位置が目から L = 250 mm となるように物体を置く。このとき M = (L/f) + 1 となる。さらに物体をレンズに近づければ倍率は上がるが、実際は目の焦点があわせられる範囲で制約される。
目を後側焦点に置く(z = 0)。このとき倍率は一定で M = L/f となり物体の位置によらない。
商品としてのルーペには M0 = 250/f を倍率として表示している場合[6]と、 M = (250/f) + 1 = M0 + 1 を表示している場合[7]、あるいはそのいずれでもない場合(目と物体の間の距離を 250 mm としてレンズをその中間に置いたときの倍率[8]、など)がある。

読書用ルーペなどで片面が平らな平凸レンズをもちいたものでは、倍率は表裏どちらでも同じだが、凸側を物体に向けたほうが非点収差などが小さく、見やすくなる[9]。倍率が大きいルーペ(M0 > 1)で両眼で観察できるほど視野を広くするには非球面レンズが必要となる[10]。

凹レンズ
基本的性質
図2‐1凸レンズと逆に光を発散させるレンズは凹レンズと言う。レンズの両面の形により、両凹、平凹、凸凹 (メニスカス凹)の各種がある。 凹レンズを通る光(図2-1)には主に以下のような性質がある。

軸に平行な光線は凹レンズを通った後、入射側にある軸上の一点(焦点)から出たかのように広がって進む(発散)
レンズの後方の焦点に向かう光線は凹レンズを通過した後は軸に平行に進む
節点を通る光線は凸レンズ同様に角度を変えずに進む

凹レンズによる虚像凹レンズでできる像は常に正立虚像で、物体と同じ側にある。焦点距離を負の数値であらわす(f < 0)と、凸レンズの場合と同じレンズの公式が成り立つ

2009年01月28日

信長の紀州攻め

雑賀侵攻
信長の第一回雑賀攻め
戦争:安土桃山時代
年月日:天正5年(1577年)2月?3月
場所:紀伊国雑賀荘周辺
結果:織田軍の撤退
交戦勢力
織田軍 雑賀衆
指揮官
織田信忠、堀秀政、羽柴秀吉など 鈴木孫一、土橋若大夫など
戦力
100,000[18] 2,000以上
損害
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

織田信長は雑賀攻撃のために大軍を動員した元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである[19]。天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。

開戦から「降伏」まで
同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになった[20]ため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長は9日に安土を発して上洛。膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張・美濃の軍勢、北畠信雄・神戸信孝・織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内と越前・若狭・丹後・丹波・播磨の兵も合流して13日に京都を発進した。16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ三万の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・同重宗、浜手は滝川一益・明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀・筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である[21]。

浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。2月28日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。

山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。

日時は特定できないが2月24日以降[22]、山手先鋒の堀秀政勢が雑賀川の渡河を試みた。『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』によれば、雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・桶・壺・槍先を沈めておいて渡河の妨害を図った。織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られて前進できず、また川を越えた者も湿地帯で動きが鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊を組んで間断なく鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。これにより織田方は多大な損害を受けて退却した[23]。

その後戦局は膠着状態となったが、雑賀側はゲリラ戦によって抵抗し、織田勢は近辺への放火や住民の殺害を行った。鈴木孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら七名は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。21日、信長は陣払いして京都へ引き揚げた。
とはいえ降参というのはあくまで名目上のことに過ぎず、雑賀衆の形式的な降伏と引き換えに織田勢が撤退したというのが事実に近いと思われる[24]。足利義昭や毛利輝元は当時から織田方の敗北を喧伝していたし、雑賀衆も半年もたたないうちに再度挙兵して信長と戦うようになる。

信長は引き揚げるに当たり、雑賀衆の再起に備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張を駐留させた[25]。

再起と近隣への報復
同年7月、雑賀荘・十ヶ郷の諸士を中心とする雑賀衆が兵を動かし、先に信長に与した三組の衆への報復を始めた。8月16日、井ノ松原(現海南市)において鈴木孫一らの雑賀衆は日高郡の国人・地侍の応援を得て南郷の土豪稲井秀次・岡本弥助らと戦い、これを撃破した。同時期に信長は佐久間信盛父子を大将に七、八万の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。

翌天正6年(1578年)5月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を一か月にわたり包囲攻撃したが、落城には至らなかった。宮郷はその後、本願寺に謝罪して赦免を受けている。

石山開城後
天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった[26]。
天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児五人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平次・平尉(平丞)兄弟は逃亡、根来寺泉識坊[27]は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。

高野攻め
信長の高野山攻め

高野山壇上伽藍。顕如によれば、1586年当時の山内には七千坊の子院があったという
戦争:安土桃山時代
年月日:天正9年(1581年)10月-天正10年(1582年)6月
場所:高野山麓から紀ノ川南岸一帯
結果:織田軍撤退
交戦勢力
織田信長 高野山
指揮官
織田信孝、岡田重孝、松山新介など 南蓮上院弁仙、花王院快応、橋口隼人など

高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する[28]紀伊の一大勢力であった。

高野山と織田信長の関係悪化は、天正初年の大和宇智郡の領有問題に絡むトラブルに始まる。同8年(1580年)閏3月に荒木村重の残党五名が山内に逃げ込み、これを察知した信長は7月に前田利家・不破光治を使者として高野山へ差し向けたが、高野山側は懐に入った窮鳥はこれを追わずとして五人の引き渡しを拒否した。8月、堺政所の松井友閑配下の足軽32人が山内に入り、荒木残党の捜索と称して乱暴狼藉を働いたため、高野山側によって全員討ち果たされた。その報復として信長は9月21日、諸国の高野聖を捕えるよう命じた。
高野山には全面対決の意思はなく、朝廷に嘆願したり信長にも謝罪の使者を送ったりと和平工作を継続していた。信長も9月21日に宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に与えるなど、直ちに武力行使に踏み切る意思はなかった。だが発端である荒木残党の引き渡しについては最後まで合意に達しなかった。

天正9年(1581年)8月17日、信長は高野聖数百人を安土において処刑した[29]。これを契機に、世間では高野山攻めが行われるという噂が流布するようになる。

戦いの有無と規模に関する考察
『高野春秋編年輯録』によると、10月2日に堀秀政が根来に着陣したのを皮切りに、総大将織田信孝以下岡田重孝、松山庄五郎らが紀ノ川筋に布陣、大和口には筒井順慶・定次父子を配し、高野七口[30]を塞いで総勢十三万七千二百二十余人に達したとされる。これに対し、高野山側は領内の僧兵や地侍に諸国の浪人を加え、合計三万六千余の軍勢を集めたとする。

しかしながら、当時なお多方面に敵を抱えていた織田氏がそれだけの兵力を高野山に投入することができたのかという疑問、また大軍に比してそれを指揮する武将の格が低すぎること、名を挙げられている人物には明らかに当時他方面で働いている者が含まれている[31]ことから、『高野春秋』の記す合戦規模については疑問符をつけざるを得ない。とはいえ、高野攻め自体については各種史料に残る断片的な情報から、全くの虚構とは言えない。高野山側の記録よりもかなり小規模な形で戦いがあったとするのが妥当ではなかろうか[32]。

戦闘経過
高野山側は伊都・那賀・有田郡の領内の武士を総動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた[33]。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山昭高の子)を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、信長降伏の祈祷を行った。

天正9年10月、織田勢は紀ノ川北岸一帯に布陣し、総大将織田信孝[34]は鉢伏山(背山)城(現かつらぎ町)に本陣を構えた。根来衆も織田方として動員された[35]。織田勢と高野勢は紀ノ川を挟んで対峙する形になったが、なお交渉は継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。

翌10年1月、信長は松山新介を多和(現橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢[36]の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を襲ったが部将二名を失って撃退される。
3月3日、高野勢五十余名が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市(旧那賀町麻生津)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。

6月2日夕刻に至って、高野山に本能寺の変の情報が届く。まもなく寄手は撤退を開始し、高野勢はこれを追撃して打ち破った。高野山は危機を脱し[37]、8月21日には恩賞が行われた[38]。

秀吉の紀州攻め
秀吉の紀州攻め

再建後の根来寺大伝法堂。和泉支配を巡り、根来寺と秀吉は対立した
戦争:安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月?4月
場所:和泉及び紀伊各地
結果:羽柴秀吉による紀伊平定
交戦勢力
羽柴秀吉 紀伊国人衆及び有力寺社
指揮官
羽柴秀長、中村一氏、小西行長など 畠山貞政、湯河直春、太田宗正など
戦力
60,000?100,000[39] 総数は不明
損害
7,000?10,000[40] 10,000?15,000以上

羽柴秀吉像
再建岸和田城根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に八か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など五千人以上が居住していたとみられる[41][42]。また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉は根来寺の泉南への進出を快く思わず、機会があれば討伐しようともくろんでいた[43][44]。

本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し[45]、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。
以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、ここに根来・雑賀が共同で羽柴秀吉に対抗するという構図が生まれた。

前哨戦
天正11年(1583年)、秀吉は蜂屋頼隆を近江に転出させて中村一氏を岸和田城に入れ、紀伊に対する備えとした[46]。一氏の直属兵力は三千ほどで、紀州勢と対峙するには十分でなかった。そのため和泉衆[47]をその与力として付け、合わせて五千弱の兵力を編成した。これに対抗して根来・雑賀衆は中村・沢・田中・積善寺・千石堀(いずれも現貝塚市)に付城を築く。以後、岸和田勢と紀州勢との間で小競り合いが頻発するようになった。根来・雑賀衆は畠山貞政を名目上の盟主に立て、さらに紀南の湯河氏の支援も受けた。
同年7月、顕如は鷺森から貝塚に移った[48]。

同年秋頃から紀州勢の動きが活発になる。10月、一氏は兵力で劣るために正面からの戦いを避け、夜襲で対抗するよう指示を出した。同12年(1584年)1月1日、年明け早々に紀州勢が朝駆けを行う。3日、今度は岸和田勢が紀州側の五か所の付城を攻め、これを守る泉南の地侍らと激戦となった。16日、紀州勢が来援し、五城の城兵と合わせて八千の兵力となり、岸和田を衝こうとした。岸和田勢は六千の軍勢で対抗し、近木川で迎撃して紀州勢を退けた。

大坂襲撃
同年3月、根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒は日高郡の湯河・玉置氏の加勢を得て和泉へ出撃。さらに淡路の菅達長[49]の水軍も加わり、18日には水陸から岸和田・大津を脅かした。大津の地侍真鍋貞成[50]は菅水軍の二百艘一千人を撃退した。

21日、秀吉は尾張に向けて出陣。翌22日、紀州勢は二手に分かれ、一手は土橋平丞兄弟を将として四、五千人で岸和田城を攻撃した。もう一手は堺を占領して堺政所松井友閑を追い払い、さらに26日には住吉や天王寺に進出して大坂城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・黒田長政らと戦った。未だ建設途上の大坂の町は全く無防備で[51]、人々は紀州勢の破壊を恐れて[52]自ら家宅に放火した。また盗賊が跋扈し略奪が横行し、その治安の悪化は安土炎上時に匹敵したという[53]。最終的には大坂は守られ、紀州勢は堺・岸和田からも撤退した。この戦いを岸和田合戦という[54][55]。

この攻勢は秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しようとした矢先に行われ、秀吉は一度は予定通り21日に大坂を出立したもののその後また大坂に戻るなど出鼻を挫かれることになった[56]。その後も4月には保田安政が河内見山(錦部郡)に進出し、8月には見山城を築いて活動拠点とした。またこの時期、根来・雑賀衆は四国の長宗我部氏とも連絡を取り合っていた

2009年01月20日

科学哲学(かがくてつがく)

科学哲学(かがくてつがく)は哲学の一分野である。

広義には、科学を対象とする哲学の総称である。英philosophy of science。本項で詳述。
狭義には、ウィーン学団が唱えたscientific philosophy科学的哲学、すなわち論理分析や言語分析を用いた科学哲学のことを指す

科学哲学は、伝統的に自然科学、なかでも物理学が研究対象となってきたが、近年では生物学の研究が盛んになり、また心理学や社会科学も研究対象とされるようになってきている。 これらの対象に応じて物理学の哲学、生物学の哲学、社会科学の哲学、数学の哲学などに下位区分される。

トピックと下位区分
重要なトピックはとしては、以下のものがある。

科学の方法論的基礎に関する研究(検証理論、帰納的推論、科学的合理性、相対主義、統計学の哲学、社会科学における解釈主義、etc.)
科学の存在論的基礎に関する研究(科学的実在論、還元主義、量子力学の存在論的含意、時空の哲学 etc.)
科学において使われる概念の概念分析(法則とは何か、科学的説明とは何か、科学理論とは何か、「進化」概念の分析 etc.)
科学の動態に関する研究(科学の進歩、パラダイム転換、etc.)
科学と社会の関わりに関する研究(社会構成主義、科学者の社会的責任 etc.)
これらのトピックに応じて科学方法論、科学認識論などに下位区分される。

科学哲学史概説
近代以前は現在の自然科学にあたる分野は自然学ないし自然哲学と呼ばれていた。近代初期においてはガリレオ・ガリレイ、ルネ・デカルト、ブレーズ・パスカル、ゴットフリート・ライプニッツなどに見られるように哲学者と自然科学者の境界は非常にあいまいで、実質的な科学研究を行うかたわらその哲学的基礎についても考察するというパターンも多かった。18世紀においても、哲学者のイマヌエル・カントはニュートン的な空間や時間が人間の認識の枠組みであるというような時間、空間論で知られるほか、引力と斥力という二つの力を基礎とする自然哲学を展開するなど、科学の哲学的基礎についての考察を行っていた。

しかしその後次第に分業が明確化していき、19世紀には「自然哲学者」ではなく「科学者」という呼び名が発明された。科学を専門にあつかう分野が科学哲学という呼び名で呼ばれるようになるのも19世紀になってからである。 英米における科学哲学の祖としては、19世紀前半のジョン・ハーシェル、ウィリアム・ヒューウェル、ジョン・スチュアート・ミルらの名前があげられる。他方、ドイツでは、反科学主義的なドイツ観念論が流行したために、自然科学と哲学系の自然哲学の間には距離が生じていた(それでも、ドイツ観念論と電磁気学の間に関わりがあったことなどが知られている)。ただし19世紀にはまだエルンスト・マッハやアンリ・ポアンカレなど、科学者による科学哲学も盛んに行われていた(ハーシェルもまた高名な天文学者であった)。

20世紀になると、科学の方法論に対する見直しが行われ、それが操作主義や論理実証主義の運動として、科学者と哲学者の共同のもと展開された。これには、物理学の革命が20世紀初頭に進行したこと、記号論理学が発達して数学の基礎づけについての研究が進展したことなどが影響しているといわれている。
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20世紀後半には、実証主義的な科学論の行き過ぎた科学主義に対する批判が噴出した。その代表がトーマス・クーンやポール・ファイヤアーベントによって展開された、いわゆる「新科学哲学」である。これは、科学が社会の影響を超越した客観性、合理性を持つことを否定し、科学の相対性を強調するものであった。この流れはその後科学社会学に影響し、科学社会学における社会構成主義の隆盛を産むことになる他、いわゆるニュー・サイエンスなど、既成の科学と代わる別の科学を作り出そうという運動にもつながることになった。

こうした科学批判の流れが一段落したところで、現在の科学哲学は、それぞれの個別科学の基礎について研究する地道な研究が主流となってきている。

主義
様々な主義・方法論がある。以下はその一部。

数学的直観主義
経験論
大陸合理主義
還元主義とホーリズム
創発主義en:emergentism
実証主義と構成主義
論理実証主義
構造主義
物理主義
複雑系の科学